昭和53年04月04日 朝の御理解
御理解 第68節
「神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ。いかにありがたそうに心経やお祓いをあげても、心に真がなければ神にうそを言うも同然じゃ。拍手も、無理に大きな音をさせるにはおよばぬ。小さい音でも神には聞こえる。拝むにも、大声をしたり節をつけたりせんでも、人にものを言うとおりに拝め。」
神を神として立て仰ぐとためには、やはり神様を分からせてもらう。神様の働きを分からせてもらう。ためには雨が降るから風が吹くからと、ここにありますけれども、自分の様々な事情でね。今日は自分に都合があるから、又は人間心を使うていたんでは、身に徳を受ける修行にはならない。身に徳を受けると言う事は、結局は神様を信じ、神様を立て仰ぐという、そこに神様が氏子を立てて下さる。いわゆる本当の御道の信心は、あいよかけよとこう言う事が言われる。
そのあいよかけよで立ち行くというような信心。これはねやはりその身から打ち込んでおらなければ出来ることではない。ただその身から打ち込んでおると言う事は、ただ毎日お参りをしておるというものではなくて、やはり一にも神様二にも神様と、三にも神様という生き方です。いうならば神様が何時も中心であると言う事ですね。家業の行そのすべてが言うなら神様を中心にと言う事なんです。
そういう生き方から自分中心の例えば、雨が降るから風が吹くから、まあしろしいと言った様なものではなくて、もう雨の中にも風の中にも、どういう人間的な事情というものがあっても、やはりその事情と言う様なものが芯にならずに、やはり信心が中心になり、神様が中心になると言う事。そこまで行かなければね、私はいかに辛抱してもね、身に徳を受ける修行にはならんと思うね。いうならあの神様を中心にした修行。私はあの先日から丸少大会のときに、毎年こういう雑誌を発行してるんですね。
このなかなか念のいったもの、子供たち一人一人が素晴らしいその、信心に関するまたは信心の体験といったようなものを、まあ書いたものをまとめてあるわけなんですけども、もうどの子供達のあれを見ても、まあとても本当にびっくりするような素晴らしい信心が書いてございます。なるほど子供の時からその、鍛えるというか子供の時から、もういうならば一にも神様、二にも神様という生き方でいっておる子供達なんです。ちょうど百名あまり集まっとったですね。
そのなかの大体半分位が、もう本当の正式なここの丸少。後の五十人あまりは信心はしておるけれども、子供達を丸少にゃ言うなら出しきって無いというね。ただお父さんやらお母さんが信心しよるから、今あのなんかの会合の時だけ位出てくると言った様な程度のもんですけども、いわゆるその身から打ち込んで信心なさっておられる人達の所の子弟の信心と言うものは、このまま行けば大丈夫だなと言った様な、あの信心がもうとにかくそこの家の信心が子供達に、はっきり現れておると言う事を感じます。
昨日は梅の実会でしたから、先日の歓学祭の時の模様を、ビデオにとってございましたから、ずっと始めから最後まで見せてもらいました。なかに高橋さんが挨拶をなさっておられる。信徒会長の秋永先生、それから高橋さんのお話を聞かせてもらったんですけれども、私はあのときに高橋さんのお話が聞こえなかったんです。そしたらみんなもやっぱり聞こえなかったらしいんです。だから高橋さんの話があんまり上手じゃないから、こんだみじこ話すごたる風に言わにゃいけんですねと。
そしてやっぱりあの文章にすれば、やはりあの勉強が出来ておられますのですから、素晴らしい文章にする。お話をされるとどうも話があんまり上手じゃないから、今度そげん下手の長談義はいけんと言おうち言いながら聞いたんです。ところがどうしてどうして耳に入ったらね。耳に入らんから分からんのです。もうそれこそ一字一句だってのがさなければならん。もう実に纏まったお話であるのに、まあ一同が驚きました。テレビには映っているわけです。出てるわけですお話が全部入ってる。
私共はその聞こえないものですから、何かえらい下手の長談義のように聞こえたんですけれども実際そうではない。やはりそばで本当に耳に入って聞いておったら、素晴らしいお話です。だから問題はあのもう少し何というですか、もうみんなに隅々まで聞こえるようなふうに話なされば、まあ素晴らしいお話だったと言う事になるです。昨日みんな一度頂いたものがですね、改めてまた感心しました。
もう本当に素晴らしいお話をしておられます。秋永先生のお話を聞いてお話が上手だなと、なかなか要領も良いし何かこうつかみどころが素晴らしいと。ところが実際テレビで聞かせて頂くともう、しらごつまこつ言うとるとに驚きました。はっははしらごつまこつと言う事は分かるでしょうもんね。嘘もありゃ本当もあるという意味なんです。その嘘を言っとる訳じゃないけれどもね。
言葉の表現が私と同じこっで、そのまあいうならば舌足らずであったり、又はあの表現が全然反対で間違っておったりしてる訳なんです。話が上手ですから聞かせてるわけです、やっぱ。まあ耳そのよくその行きわたってる訳なんです。と高橋さんのは長いしそしてお話がゆっくりゆっくりだし、それでみんなによく耳入ってないからね、その何かちった高橋さんの話は長すぎると言った様なふうに言ってましたけれども。
実際そばで聞いてそのテレビで聞かせて頂きましたら、もう初めから最後まで無駄のない素晴らしいお話であることにまあ改めて驚いた。こらやっぱ、強しとかなければいけませんですね。もうその第一こと表現が素晴らしいです。まその中にねもう一遍また機会があったら聞き直して下さい。テレビで聞かせて貰うと素晴らしい、それこそ子供達を持つ親御さんの信心。それにまた子供達に対する信心の継承と言った様な事が、もう実にその自分の体験実感を込めて話しておられます。
なかに私は子供の信心についてと、こういう風に言うておられる。一にも神様二にも神様、三に勉強と言っておられるですね。と言う事はね勉強を疎かにしても良いと言う事じゃないんです。実は私は三人の娘を持っておりますが、娘達が福岡から合楽まで日曜たんびにお参りをする。しかも一人でお参りを致しますから、どの娘でも高校それから中学生が二人ですかね。親としてやはり不安でないことは無い。
けれどもここに一にも神様、二にも神様を頂かせるためには、やっぱそういう教育が要るんだと、そして心配なことはひとつもありません。おかげで子供は子供なりにね。親たちがびっくりするような信心を身につけていってくれておりますというお話でしたね。もうとにかく学生は勉強だとね。勉強だとね。そして時たまお参りをするというのとは全然違うです。これはほんなら私共の最近の信心合楽の信心で言うと家業の行ですね。神様にお願いをして商売が繁盛するようにお願いするとね。
いうならば神様をお手伝いのように使っておると言う様な信心じゃなくてです。もう信心が芯なんですね。信心の中に生活があるんです。信心の中に勉強があるんですね。私は今日皆さんに聞いて頂きたいのはね。そういう信心を神様を中心にした生き方だ信心だというふうに思うです。自分の考え自分を中心にしたね。子供に折角学校にやってるんですから、勉強もしてもらわんならんし、まあ良う出来ても貰わんならん。けどもどんなに勉強が良う出来たからと言うて、熱心に勉強さしたからと言うてです。
勉強そのものが人間の幸せを右左するのじゃないです。どこまでも枝葉なんです。芯はどうかと言うたら心なんです信心なんです。だから信心を芯にしての勉強でなからなければ。信心を芯にしての生活であり、家業でなからなければ。私は身に徳を受けるような修行にはならないと思うですね。高橋さんの言葉を借りるとね。少しはやっぱり娘を福岡からね。合楽までもやるのですから、やっぱりあの不安なところもありゃ、心配なところもあるけれども、やはり神様を芯にするとそうせずにはおられない。ね。
そして段々お育てを頂いて、もう末の子供が中学に入らせて頂くというくらいに、三人の娘を育ててみてですね。自分の教育は間違って無かったと言う事を言っておられます。ね。雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならんね。子供達にはね。学業が芯だから遠いからね。もう子供のくせにそんなに神様神様と言わせんでもと言ったようなものではなくてです。子供の時からそういう信心をね。一にも神様二にも神様という、信心を芯にした生き方をですね。
そしてそのいうなら辛抱こそというのはね。少しは不安があるけれどもです。神様におすがりをして、信心のほうへ向わせると。そういういうならば信心がですね。親も子も一緒に身に徳を受ける修行と言う事になるのじゃないだろうかと思います。問題は神様が芯でなからなければね、神様を仰ぎまつると言う事にはならんのですね。明日は試験ならばね。教会へお参りをしてお願いしときなさい。明日は旅行ならばお参りをして御神米を頂いてきなさい。もういうならば神様を従にしておる生き方でしょう。
普通はそれが多いですよねね。只今から集金に行きますから、神様どうぞよろしゅうお願いしますと言うのと同じことでしょう。神様をまるきり集金人のように思うて、使うておるような行き方でしょう。これは信心家業が先行しておるわけですね。家業そのものが信心であるね。信心そのものが勉強であるね。そこから言うなら子供は子供なりの信心が、いよいよ身に付いてくる。
それをじっと辛抱しながら、出させて頂いておる親の上に、いうならばその辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃ。ちょっと考えると教会に寄っても勉強させたほうが良い。教会に行く時間勉強を余分にさせたほうが良いね。そしてさあ試験だなんかという時にはお参りして来い。お願いをして来いと言う程度の信心は私はね。丁度雨が降るから風が吹くからと言うておるのと、同じ様な事ではなかろうかという風に思いますね。それには先ずほんなら親そのものの信心がですね。
一にも神様二にも神様、それこそ三にも神様と言う事になり、そういう信心を日頃身に付けておかなければ、子供にだけそういういうならば、度胸も出来ませんね。どんなに有難そうに心経や大祓いをおげてもと、どんなに金光様の信心が、有難いの勿体ないのと言うてもですね。子供だけは勉強が一、二にも勉強学生だから、学生の本分だからと、例えば、教会参りを怖がるようなこと、怖がるというと何ですけれども、それだけ大事にしてないと言う事。
これでは後になってから子供に信心の継承を云々してもですね。芯からのものになっていかないね。私共の子供の時にはもう一から一にも神様、二にも神様で育てられた。その中にほんなら勉強がおろそかになったかというと、勉強も疎かになってはいないね。と言う様な信心が身につくと言う事は、もうそのまま徳が身に着くと言う事になるのです。これはねまあいうならば、よそで信心の稽古させていただいとったんでは、まあ今日私が言おうとしておる事は分からんと思う。
先日もある教会の先生から、手紙が参っております。もう本当におかげの泉によって、信者がおかげを頂いておる。どんなにも読み古しでも良いから、あの少し量を沢山送ってくれと言うてきてますね。読んで助かる読んでおかげを頂いておる。そして最後に今の金光教を救える信心は、もう合楽理念には以外にはないという風に書いておられますね。なら合楽理念はマスターすれば誰でも出来る。みやすうしかも楽しゅう嬉しゅう出来る。しかも愉快に出来る。
なそうと思えば子供でもなされることを合楽理念は説くね。ほんなら、合楽理念にはどう言う事を書いとるかというと、今私が聞いて頂いた様な事を芯にして書いておる、言っておるわけです。もうとにかく一にも神様、二にも神様いうならば、三にも神様で、商売は大繁盛のおかげになるのだと。農作物は立派に出来るんだとね。それでほんなら子供達の勉強も、結構出来るんだとね。ほらもう神様神様と言うて、勉強もさせんなら子供達が、どげなふうになるじゃろうかと心配する。
その心配が雨が降るから風が吹くからえらいと思うておる、大儀と思うておるまたそれはほんなこっじゃないように思うておる。一にも神様二にも神様という生き方をですね。もう子供の教育は合楽理念を持ってする外なしと言う事なんです。そら皆さん一遍これをあの沢山無いですけれども、読んでみて御覧なさい。子供達親の信心がはっきり現れておるのに驚きますね。成程今の教団を救えるものは、合楽理念を持ってするほかなし。それにはねいうならばお商売は、合楽理念を持ってするほかは無いね。百姓は合楽理念を持ってするほかはなしね。
末永先生に言わせれば、海外布教は合楽理念を持ってするほかはなし。そんなら子供の教育だけは、親の考えでと言うたら、可笑しいでしょうもん。子供の教育も、やっぱり合楽理念をもってするほかはなし。合楽理念にはただ見やすい、それを行じて行けば楽しゅうなるというのは、どこまでも自分を本位でなくて、神様が本位であり信心が芯であるからなんです。だから神様と共にと言うか神様の叶えて下さる、一つの調子リズムと言うのが出てくるから、信心が楽しいものになってくるのですね。
一にも神様二にも神様、で、三に勉強と言っておられることは、実を言うたら三にも勉強と言うても良いところなんです。その一、ニ、三の中に勉強も必ず含まれておると言う事なんです。そして間違いの無い心を中心にした勉強になっておると言う事なんです。どんなに勉強してどんなに百点満点とっても、その百点万点取ることだけが、人間の幸せじゃないと言う事をね。もう確認しながら勉強すると言う事なんです。改めて私は合楽理念を持ってする、いうなら生活のそのすべてね。
ただ子供の教育だけは親の考えでなからにゃ出来んと言った様な事があって良かろうはずが無い。ただ試験のときだけお願いに行きなさい。さあ遠足だから旅行だから御神米頂いてきなさいという程度の信心では、これは本当のことじゃないと。親の信心をもう一遍改めてみて、雨が降るから風が吹くからという理由で、子供に信心を与えきっていないことを、改めて思うて見なければならない。おかげにはなっても言うなら、その辛抱こそ身に徳を受ける修行にはならないと思うですね。
どうぞ。